昭和20年3月18日朝、大分県は初めて本格的な米軍の空襲をうけました。この日の空襲は、沖縄本土上陸作戦の妨げとみられる九州にある軍事施設、特に、航空基地及び航空機の撃滅を目的としたもので、大分県では航空隊を持つ大分、佐伯、宇佐が攻撃目標となりました。
その後、大分県は連日、米軍の空襲にさらされました。豊後水道が本土空襲の通路となっていたためでした。県内各地で無差別爆撃や機銃掃射による犠牲者がふえていきました。特に、第12海軍航空廠での勤労動員中の学徒の爆死や保戸島小学校への爆撃など悲惨な出来事が続きました。県内で最も被害の多かった大分市は、7月16日夜半から17日未明にかけて、B29、30数機による焼夷弾攻撃を受けて、2,358戸が焼失するという大被害をうけました。「大分駅に立ってながめたら、浜町の海が見通せた」といわれるほど、この夜の空襲で大分市中心部はすっかり焼き尽くされました。米軍の空襲は終戦まで続きました。
大分の空襲の状況は次のとおりです。
回数など
期間
被害状況