現在では、明礬温泉の代名詞とも言える湯の花ですが、その採取が始まったのは明治以降のことで、それまでは全国一と言われる明礬の採取地でした。明礬は、媒染剤といって、染物の色を鮮やかに染め出したり、収斂剤として止血や下痢止めの薬になったり、なめし革を作るときなどに重宝されました。
別府で初めて明礬を作ったのは渡辺五郎右衛門で、江戸時代前期のことでした。その後、脇儀助(儀右衛門、儀左衛門とする資料もある)が明礬山を開きます。当時、明礬山は森藩と幕府領とに跨っていて、森藩側が鶴見明礬、天領側が野田村明礬と呼ばれていました。明礬の製造そのものは幕府が渡辺家に特許を与えて保護し、後に脇家に支配を任せていました。天保の改革(1830年)の際、幕府は製造を中止し、森藩の直営一本になります。幕末には、山奉行岩瀬謙吾が藩の代表として明礬製造を支配しました。明治維新からは、大分県の直営になりましたが、外国からの新技術を取り入れた他県産のものや輸入品に押され、明治17年、湯の花製造と旅館の開業に転向しました。その後、交通の発達とともに旅館も増加していき、明礬地域は湯治場として発展していきます。皮膚病に効くという湯の花の評判と相まって、昭和10年代と戦後の一時期、明礬温泉は黄金期を迎えることになります。