大分県のホームページには、『大分ガイド[O-BOOK]』からの引用として次のように紹介掲載されています。
・・・「豊後国風土記」は、"おおいた"について景行天皇に由来を求めています。天皇がここに来たとき「広大なる哉、この郡は。よろしく碩田国(おおきた)と名づくべし」とし、これがのちに"大分"と書かれるようになったといわれます。 しかし、実際の大分平野は広大とは言いがたく、むしろ地形は狭く複雑であり、「多き田」→「大分」との見解が最近の定説です。これが"とよのくに""おおいた"の由来です。・・・
https://www.pref.oita.jp/soshiki/10400/symbol04.html(2023年1月14日最終確認)
県名の由来は意外に難解です。
『大分県史[近代篇Ⅰ]』によれば、明治4年廃藩置県時、「県の中心部に位置した大分郡からとったもの」となっています。その「大分郡」は、『豊後風土記』によれば、8世紀前半古代律令制度成立過程で、地方行政単位として、国・郡・里が整備されていく時、存在していたことがわかっています。では「大分」をオオイタとよむようになったのはいつか、また、なぜそう訓読するのか、その意味は、となると諸説あるのです。
これまで『日本書紀』・『豊後風土記』史料の「景行天皇九州巡幸説話」が定説との観がありましたが、『大分歴史事典』(後藤宗俊氏解説)によれば、事実には程遠く、確かな文献に拠る限り、「大分」の方が古く、「碩田」説話は「大分」地名の意味付けに後から作られた説話というべき、と考証しています。であれば、「大分」の字義の解釈が問題となります。半田康夫氏は、『大分県の風土と沿革』で、「分」は「段」と共に「キダ」と訓まれていたとしています。渡辺澄夫氏も『大分市史』昭和30年刊で、「キダ」は「段」で、きれめ・きざみ・だんの意、「分」はわかち・わかれの意で、分離の意味において両者はあい通ずる故、「オオキダ」は大きく(大いに)きざみ分けられた所と解される、と述べています。地形が錯綜している事から起こったのではないかというのです。「大分」の字義解釈が諸説ある中で、この説が現在比較的有力です。